【志村けん】結婚を考えてた35年前の元恋人の顔画像や名前や現在を公表!?過去の恋愛遍歴は?

2020年3月25日(水)19時00分~21時48分   あいつ今何してる? 志村けん元恋人と再会!!黒木瞳・ホラン(秘)過去爆笑&涙3時間SP

志村けん衝撃のTV初告白…結婚を考えた元恋人と35年ぶり奇跡の再会!

ネプチューンMC「あいつ今何してる?」(テレビ朝日・ABCテレビ系)の3時間スペシャルが明日3月25日(水)に放送され、志村けんがゲスト出演する。

今何してるのか気になる人物として志村が名前を挙げたのは、かつて真剣に結婚を考えていたという13歳下の元恋人。

彼女とは番組を通じて出会い、人生で初めて相手の両親のもとまで挨拶に出向いたと明かす。

「何が破局の原因だったのかよく覚えていない」と当時を振り返り、「彼女が今、幸せかどうか聞いてみたい」という志村。

そこで番組スタッフが彼女に直接話を聞くと、志村が忘れていた破局の真相が約35年ぶりに明かされる。別れの理由や当時の交際秘話、彼女の今とは。

【志村けん】結婚を考えてた35年前の元恋人の顔画像や名前や現在は?と気になる方は多いと思いますので、ぜひご覧下さい!

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志村けんのwikiプロフィールと経歴を紹介!

引用元:https://twitter.com/hashtag/%E5%BF%97%E6%9D%91%E3%81%91%E3%82%93

プロフィール

本名       志村 康徳(しむら やすのり)

ニックネーム         けんちゃん、しむけん、ケン坊、けん

生年月日               1950年2月20日(70歳)

出身地                  東京都北多摩郡東村山町(現・東京都東村山市)

血液型                  A型

身長                     166cm

最終学歴               東京都立久留米高等学校(現・東京都立東久留米総合高等学校)

師匠                     いかりや長介    加藤茶(二度目の付き人時代)

コンビ名               マックボンボン(解散)カトケン(正式なコンビではない)

グループ名            ザ・ドリフターズ

事務所                  イザワオフィス

1950年2月20日、小学校教諭だった父・憲司(けんじ)と母・和子(かずこ)の三男として東京都北多摩郡東村山町(現:東京都東村山市)に生まれる。

二人の兄たち(長男の知之と次男の美佐男)が大学を卒業して公務員になったのと対照的に、末っ子の彼だけが後述の通り全く異なる人生を歩むこととなった。

なお、芸名の「けん」は父親の名前から取ったものである。

経歴

1968年2月、高校卒業間際にいかりや長介の家へ直接押しかけ、弟子入りを志願する。

由利徹やコント55号とザ・ドリフターズ(以下ドリフ)のいずれに弟子入りするか迷ったが、音楽性の面からドリフを選んだ(高校二年時に実際に由利徹のもとを訪ね弟子入りを志願したが、断られている)。

雪の降る中、いかりやの帰宅を12時間ほど待ち続けるも、門前払い同然の扱いで、容赦なく突き放されたが、それでも食い下がったため根性を買われ、「バンドボーイ」が辞めてメンバーに欠員が出たらという条件で仮採用された。

いかりやは後に「帰宅すると勝手に居ただけで待っててくれと言った覚えはない」と語った。一週間後に呼び出された後楽園ホールで、いかりやから正式に採用を告げられた志村が、「じゃあ(高校)卒業したら来ます!」と答えると・・・

「バーカ、明日から行くんだよ、青森に!」と言われ、翌日から青森巡業などへ同行させられるなどすぐに多忙となり、高校卒業式は当日の午前中だけ時間を貰い慌ただしく式に出席し、仕事に戻った

加藤茶の付き人となるも1年余りで一度脱走し、バーテンダーなどのアルバイトをしていた。

仲間が伝えるのを忘れていたため、脱走したとメンバー内で騒がれていた。

戻って来た時にはいかりやの家に行きづらかった事から、加藤の家に行って頼み、いかりやへ口添えしてもらったところ、「二度も弟子入りする奴は、よくよく好きなんだろう」と出戻りを認めてくれた。

その後、しばらく加藤の付き人兼加藤家居候となる。

1972年、22歳の時に井山淳とお笑いコンビ・「マックボンボン」を結成し、「志村健」の芸名で芸能界デビュー

井山のボケに対して、志村が立ったままの姿勢から足で顔面にツッコミを入れるなど、身体を張ったネタを披露し、歌謡ショーの前座として人気を獲得していく。

10月には早くもコンビの名前を冠したテレビ番組『ぎんぎら!ボンボン!』(『シャボン玉ホリデー』の後番組で、後に放送時間を変更の上で『シャボン玉ボンボン』に改題)に出演が決まる。

芸能界デビューが冠番組となる幸運となるが、知名度の低さ、ネタの少なさもあり人気は低迷(いかりやはテレビのレギュラーが決まる前からそのことを危惧していた)。

12月31日放送分で番組は打ち切りとなり、この時点で井山が脱退(失踪)。

コンビはその後自衛隊出身の福田正夫を相方に迎え心機一転を図るが、福田はそもそも芸能界志望ではなく、ネタ合わせも全く身が入らない有様で、結局自然消滅へと向かう。

志村はその後ドリフターズの付き人に戻ったが、戻った直後の1973年12月に「メンバー見習い」の扱いで、「志村けん」に改名した上でドリフに加入する

1974年3月31日をもって荒井注が脱退し、4月1日に正式にドリフのメンバーとなる。この時、いかりやは自分や荒井と同年代の新メンバー豊岡豊の加入。

すわしんじの昇格も検討していたが、志村の順番であったことと、加藤の推薦により若手の志村が起用された。当時、志村は24歳だった。

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テレビ番組

レギュラー番組

天才!志村どうぶつ園(日本テレビ、2004年4月〜)

志村でナイト(フジテレビ、2018年10月〜 )

スペシャル番組

志村けんのバカ殿様(フジテレビ、毎年正月・春と秋の番組改編時期、1986年〜)

志村けんのだいじょうぶだぁ(フジテレビ、年に数回放送、2007年〜)

志村&所の戦うお正月(朝日放送・テレビ朝日、毎年1月1日午後放送、1999年〜)

志村&鶴瓶のあぶない交遊録(テレビ朝日、毎年正月放送)

ダウンタウンDX(読売テレビ) 不定期出演

志村けん聞録(テレビ朝日)

芸能人格付けチェック(テレビ朝日) 不定期出演

過去の出演番組

ぎんぎら!ボンボン!(日本テレビ、1972年10月〜12月)

シャボン玉ボンボン(日本テレビ、1973年1月〜4月)

志村けんの失礼しまぁーす!(日本テレビ、1986年10月〜1987年9月)

加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ(TBS、1986年1月〜1992年3月)

KATO&KENテレビバスターズ(TBS、1992年4月〜9月)

志村けんのだいじょうぶだぁ(フジテレビ、1987年11月〜1993年9月)

志村けんはいかがでしょう(フジテレビ、1993年10月〜1995年9月)

志村けんのオレがナニしたのヨ?(フジテレビ、1995年10月〜1996年3月)

けんちゃんのオーマイゴッド(フジテレビ、1996年4月〜9月)

志村X(フジテレビ、1996年10月〜1997年9月)

変なおじさんTV(フジテレビ、2000年10月〜2002年9月)

志村流(フジテレビ、2002年10月〜2004年3月)

志村塾(フジテレビ、2004年4月〜9月)

志村通(フジテレビ、2004年10月〜2005年9月)

志村けんのだいじょうぶだぁII(フジテレビ、2005年10月〜2008年3月)

志村屋です。(フジテレビ、2008年4月〜2010年4月)

志村軒(フジテレビ、2010年4月〜2012年3月)

志村劇場(フジテレビ、2012年4月〜2013年3月)

志村だヨ!(フジテレビ、2013年4月〜9月)

志村笑!(フジテレビ、2013年10月〜2014年3月)

志村座(フジテレビ、2014年4月〜2015年9月)

志村の時間 (フジテレビ、2015年10月〜2017年3月)

志村の夜(フジテレビ、2017年4月〜2018年9月)

加トちゃんケンちゃん光子ちゃん (フジテレビ、1987年〜1994年)

疾風怒涛!FNSの日スーパースペシャルXI真夏の27時間ぶっ通しカーニバル 〜REBORN〜(1997年7月27日、フジテレビ)

ウッチャンナンチャンの炎のチャレンジャー(テレビ朝日)  準レギュラー

人気者でいこう!(朝日放送)

発掘!あるある大事典II(関西テレビ) 司会

快傑えみちゃんねる(1999年頃、関西テレビ)

志村けんだよ大集合!!コントとトーク大放出 タノシムケンSP!!(2008年4月1日、TBS)

志村けんだよ大集合!!コントとトーク大放出スペシャル!!(2009年1月27日、TBS) – 「バラエティーニュース キミハ・ブレイク」内で放送

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【志村けん】結婚を考えてた35年前の元恋人の顔画像や名前や現在は?

引用元:https://entertainment-topics.jp/38510

志村けんさんが結婚を考えてた35年前の元恋人の顔画像や名前や現在は?と気になる方は多いと思います。

志村けんさんが現在70歳なので、35年前なので35歳の時です。そして13歳下の女性という事は22歳という事になります。

その女性は現在57歳という事ですよね。

石野陽子さんかなぁ?と思い、調べてみたら52歳ですので、いしのようこさんが結婚を考えた女性ではない事がわかりました。

では、どんな女性で、顔や名前が気になりますよね?

それは・・・番組で公表されるかもしれません。わかり次第追記したいと思いますので、お待ちくださいね!

志村けんさんは別れた理由「覚えていない」と言っていますが、大滝裕子さんははっきり覚えていると言う。それが「好きな人が出来た」だったそうですね。

「言う方だから忘れてるかもしれない。」と語っていました。

志村が過去に結婚を考えていたという女性は、同じ事務所で歌手として活躍していた大滝裕子さん。出会いから2年経過し、大滝さんが18歳を過ぎた頃から「付き合った」と明かした。

「付き合って結婚しようって気持ちもある」と交際開始から数か月。

「ちゃんと付き合うなら、相手の親にあいさつした方がいい」と大滝さんの両親にあいさつに行き、「お付き合いしてるので、よろしくお願いします」とあいさつしたと告白した。

13歳の年齢差を乗り越え、交際は順調に見えたが別れは突然、訪れた。

理由について「理由は定かじゃないんだけど。ケンカか何かしたんだと思う。じゃあ、もうやめよう、付き合うのって」と激白した。

以来、一度も「合っていない」という大滝さんに「今は幸せですか?って聞きたい。結婚してうまくいってれば、それが一番いいかな」と現在の心境を語った。

VTRで出演した大滝さんは、現在57歳。20歳でアイドル歌手に限界を感じ、事務所を退所。

21歳から「AMAZONS」というコーラスグループを結成し、現在も所属。久保田利伸、安全地帯、玉置浩二、藤井フミヤ、松任谷由実など、大物アーティストのツアーやレコーディングにも参加し、歌ったという。

志村が「定かでない」と語った別れの理由については「話はしました。(別れ話は)志村さんの方から。ショックでしたけど、そういうのって受け入れるしかないじゃないですか」と明かした。詳しい内容については「ハッキリ覚えてます。好きな人が出来たからって」と語った。

志村が「結婚して、幸せになっていて欲しい」と話した事には、10年前にアーティストのマネジャー務める男性と「結婚して、幸せです」と口元を緩めた。

現在の志村について「きっと幸せなんじゃないかなって思います。とても人を大切にする人だし。それは絶対変わってないと思うし」と語ると、志村は「いい子だねぇ。うれしいね。うまくいってて」と白い歯をのぞかせていた。

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志村けんの過去の恋愛遍歴は?

引用元:https://dot.asahi.com/dot/2018022600067.html

ドリフメンバーの中で唯一、結婚歴がない独身。

しかし、結婚の願望は強く、「母に子供の顔を見せてやりたい」「人恋しく、人肌恋しい」とブログに載せている。

付き人時代に同棲していた女性とは、婚姻に至る前に子供ができたが、周囲の反対で彼女と別れたことを自著『変なおじさん』の中で告白している(その女性と子供の消息は不明)。

その他、3年間の同棲の果てに内縁関係(事実婚)を主張して財産の半分を持っていった女性もいた(法律上の決まりはないが、判例によると同棲期間が長いほど別れる時に高額な慰謝料が発生する場合がある)が、この女性とは結婚も考えていたと直後の記者会見で語った。

また、日本航空にスチュワーデスの愛人が複数いると報じられたこともある

さらに大のキャバクラ好きでもある。このように、女性との交際は多いものの、特定の女性との関係を長続きさせるのが苦手であるため、なかなか結婚に踏み切れないことは本人も認めている。

1980年代から1990年代中盤にかけて、太地喜和子いしのようことの交際の噂が各メディアでたびたび報じられたものの、結婚へは辿り着かなかった。

太地、いしのともに番組で共演、太地が亡くなった際には番組で追悼企画が組まれた。

太地喜和子やいしのようこをはじめ、優香大場久美子井上和香加藤綾子多岐川華子みひろと噂がありますが、どれも実らずです。

まぁ70歳ともなれば、いくつかの恋愛があっても不思議ではありません。

志村けんは結婚をする日が来るのでしょうか?

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志村けん死去!

志村けんさんが、29日、東京都内の病院で亡くなりました。

追悼の意味を込めて、以前「水道橋博士のメルマ旬報」に寄稿した「ザ・ドリフターズにとって志村けんとはなんだったのか」を一部修正の上、転載します。

ザ・ドリフターズにとって志村けんとはなんだったのか?

一定の年代より下の世代にとって、ザ・ドリフターズといえば、いかりや長介、加藤茶、志村けん、仲本工事、高木ブーの5人。

荒井注が中心メンバーの一人だったというのを知識では知っているが実感はない。ドリフのエースは志村けん、というイメージが強い。

だから、志村けんが元々はドリフのボーヤであり、荒井注が脱退した代わりにドリフのメンバーに抜擢された、といわれてもピンとこない。

実際のところザ・ドリフターズにとって志村けんとはどんな存在だったのか。

『8時だョ!全員集合』が始まる1年前の1968年2月。

志村はいかりやの自宅を苦労して調べ、新宿から30分トボトボ歩いて、いかりやを訪ねた。

しかしいかりやは仕事で留守。仕方なく志村は玄関口で12時間待ち続けた。雪の降る寒い日だったという。

ようやく現れたいかりやの顔の迫力に驚きながらも、弟子入りを志願した志村にいかりやは「ボーヤで苦労する気があるのなら」と答えた。「ちょうど辞めそうなのがいるからその時連絡する」と。

志村のもとに連絡が入ったのはそれからわずか1週間後のことだった。

後楽園ホールに呼び出された志村は新しいボーヤとしてメンバーに紹介された。

まだ高校の卒業を控えていた志村は「4月からやらせていただきます」というと、「バカヤロウ、明日からだ!」とさっそくいかりやの雷を浴びたのだ。

志村けんが芸人を志したひとつの要因は父親への反発だった。

志村の父は小学校の教頭を務め、柔道5段で堅く封建的で厳格だった。だから家庭内で志村は笑いに飢えていた。

そしてそんな父親を見て、毎日決まった時間に職場に行って帰ってきて、同じような生活をするのは耐えられないと思っていたという。

そうして「人を笑わせる仕事につきたい」と思うようになった中学の頃、父親は交通事故に遭い、その後遺症でボケが始まってしまった。

「あの頃のオヤジは、校長の試験を受けるといって、学校から帰ったらすぐに自分の書斎にこもってた。でも、だんだん記憶がおかしくなってイライラしてきて、そのうち僕のことも誰だかわからなくなってきた。(略)「どちらさんですか」っていうのと、もう飯を食ったのに「飯はまだかい」っていうのと、それしか言わなくなってきて、みんながあまり近寄らなくなると、今度はおふくろに乱暴するようになった。」(『変なおじさん』)

そんな症状だったから志村が「ドリフターズの付き人になる」と言っても父親は反対をしなかった。

ちなみに志村の本名は志村康徳。芸名である志村けんは父親の本名「志村憲司」からとったものである。

そして後に彼の代名詞となる「変なおじさん」はボケ始めた頃の父親がモデルだという。

そんな志村が新しい親として選んだのがいかりや長介だったのだ。

『全員集合』開始前の土曜8時はフジテレビの『コント55号の「世界は笑う」』が視聴率30%を超える人気を誇っていた。

そんな状況で新番組作りを任されたTBSプロデューサーの居作昌果はハプニングとアドリブの笑いを得意とするコント55号の笑いに対抗して、時間をかけて徹底的に作り上げた笑いを作ろうと考え、設定ごとに徹底的にギャグを考えるのが好きないかりや長介が率いるザ・ドリフターズをその主役に選んだのだ。

しかし当時のコント55号とドリフは因縁浅からぬ関係だった。終了したドリフの番組(『進め!ドリフターズ』『突撃!ドリフターズ』など)の後番組はことごとくコント55号が務め、成功を収めていた。明らかに勢いはコント55号にあった。

だから当初、いかりやをはじめドリフのメンバーはコント55号の裏番組を始めることに難色を示していた。

はじめから失敗することばかりを考えるいかりやに居作は思わず言ってしまう。

「たしかに55号とドリフじゃあ、今は、月とスッポンかも知れない。だけどスッポンが月に勝てないと決まってるわけじゃない」(『8時だョ!全員集合伝説』)

そんな言葉に奮起したのか、いかりやは『全員集合』の開始を決意する。

この番組開始から程なくして志村は一度ドリフのボーヤから“脱走”した。

居作によれば芸人を志したのにいっこうにお笑いをさせてもらえない状況に「あせり始めた血気盛んな志村」が「ボーヤ仲間を誘ってドリフターズを離れ、旗揚げしようと考えた」行動だったという。しかし、誘った仲間のボーヤが裏切りついて来なかった。

結果、その後1年間、サラリーマンやバーテンなど職を転々することになった。

しかし、志村本人から言わせるとやや事情が違う。

高校を出てすぐに付き人になったから、世の中のことを何も知らないことに対する不安があった、のだという。

当時のコメディアンは、みんな職を転々として苦労しているという話を耳にしていた志村は自分も「1年間他の仕事をやってみたい」といかりやに申し出る。

しかしいかりやは「必要ない」と相手にしない。だから別の付き人に「1年で帰ってくるから」と言い残し、一旦ドリフの付き人から“家出”した。

約束通り1年で戻ろうとしたら「志村は逃げた」ということになっていたため、信頼していた加藤茶に頼み口利きをしてもらいドリフの付き人に復帰。そのまま加藤のもとで居候生活を始める。

志村がいなかった1年間でドリフと『全員集合』は大ブレイク。同番組は視聴率で『世界は笑う』を抜き、コンスタントに30~40%を記録するまでになっていた。

特に加藤茶の人気はものすごく「1、2、3、4、やったぜ加トちゃん!」「ウンコチンチン」「チョットだけョ」などのギャグが次々と流行していった。

この成功をいかりやは「ドリフの笑いの成功は、ギャグが独創的であったわけでもなんでもなくて、このメンバーの位置関係をつくったことにあると思う」と冷静に振り返っている。

「私(いかりや)という強い『権力者』がいて、残り4人が弱者で、私に対してそれぞれ不満を持っている、という人間関係での笑いだ。嫌われ者の私、反抗的な荒井、私に怒られまいとピリピリする加藤、ボーッとしている高木、何を考えているんだかワカンナイ仲本。メンバー5人のこの位置関係を作り上げたら、あとのネタ作りは楽になった」(『だめだこりゃ』)

居作も同様に「荒井注がいた時代は、加藤茶が主役ではあったが、加藤のひとり舞台というコントはなかった。五人のアンサンブルの中で、加藤が笑いを取るという形だった」と分析している。

しかし、ドリフ絶頂の1973年、荒井注が「体力の限界」を理由に引退を申し出る。いかりややスタッフらが必死で説得するが決意は固く、翌年3月まで引退時期を延ばすのがやっとだった。

困ったいかりやが荒井の代役として白羽の矢を立てなのが志村けんだった。

当時志村はボーヤ仲間とマック・ボンボンとしてドリフの前座をしていたのが認められテレビにレギュラー出演。

しかし、ネタの数も乏しかった彼らは出番をどんどん削られ失意の相方が蒸発。

志村は2代目の相方を同じくボーヤの中から選びマック・ボンボンを続けたがやる気があるかないか分からない相方に翻弄された挙句、解散したばかりだった。

志村は1973年12月から「見習い・志村けん」として『全員集合』に出演を始め、74年3月、荒井注の引退に伴って、ドリフターズに正式に加入した。

しかしドリフの笑いはいかりやが分析するように「メンバーの個性に拠りかかった位置関係の笑いだから、荒井の位置に志村けんを入れたからといって、そのままのカタチで続行できるものではなかった」(『だめだこりゃ』)。

その結果、志村は加入から2年近くにわたって苦しむことになる。当時を志村はこう述懐している。

「(自分が出てくると)お客が身を乗り出して見てたのに、僕が出たとたんにサーッと引いて、シーンとなる。それが手にとるようにわかるから、つらかった。どうしても荒井さんと比べられるから、何をやってもダメで、悲惨だった。とんねるずの石橋貴明も、あのころ公開収録を見に来て、『つまんないよ、あの髪の長いやつ』って言ったそうだから」(『変なおじさん』)

それと呼応するように『全員集合』の視聴率も徐々に低迷(もちろんそれでも高視聴率だが。)していった。

それに追い打ちをかけるようにフジテレビで『欽ちゃんのドンとやってみよう!!』がスタート。遂に視聴率で抜かれるようにもなった。

窮地のドリフを救ったのは、志村けんだった。

苦戦の続いたドリフは1975年夏に「夏休み」と称して1ヶ月半活動停止をしメンバーで合宿を敢行。リフレッシュの末、やがて志村が認知され、いよいよ「笑いに関しては素人の集まりでしかなかったドリフだったが、今思えば、この志村だけが、本格的なコメディアンの才能をそなえていたのかもしれない」(『だめだこりゃ』)といかりやが評する志村の才能が開花し始める。

1976年3月、ちょうど志村がドリフに正式加入して2年が経とうとしていた。

「東村山音頭」の誕生である。

これをきっかけに志村の快進撃が始まった。「ディスコばあちゃん」「ヒゲダンス」「カラスの勝手でしょ」などを次々とヒットさせ、ドリフは再び息を吹き返したのだ。

しかし一方で、この志村のブレイクは、ドリフの笑いそのものを大きく変えることになった。

前述のとおりこれまでメンバーの「関係性」で笑いを作っていたドリフが、個性と動きで笑わせる志村が主役のキャラクターコントに変わっていった。

「コント全篇が志村けんのひとり舞台」となり、その中でギャグが展開されていた、と居作は分析する。

「荒井が抜けたとき、ドリフの笑いの前半は終わったという気がする」といかりやは述懐する。「志村加入以後は、人間関係上のコントというより、ギャグの連発、ギャグの串刺しになっていった」(『だめだこりゃ』)。

そしてこの志村のブレイクはメンバー間の人間関係にも微妙な変化をもたらしてしまった。

ボーヤあがりだったため「おい、志村」などと呼ばれていた志村が、「けんちゃん」「志村くん」と呼び名が変わり、やがて「志村さん」と呼ばれていく。

お笑い芸人として成長し、芸人としての自我と自信を持ち始めた志村と、いかりやとの間に笑いのギャップが生まれるようになってきた。

今まで、言われたとおりにやってきた志村が親に反抗するように、いかりやの意見に背くようになっていった。

そして遂に決定的な決断が下される。

フジテレビでは『オレたちひょうきん族』が開始され、その勢いが注目され始めた頃だった。

いかりやが「俺はもう疲れた」「まかせるから、そっちで何とかやってくれないか」と告げたのだという。

それを受け居作は、毎週木曜日に行われていた会議からいかりやを休ませることにしたのだ。

他のメンバーも異存はなかった。しかし、仲本工事だけは「絶対モメると思うよ」「長さんって、そういう人だから」と、反対した。

その不安は的中する。

「疲れた」と口にするのはいかりやの口癖のようなものだった。疲れているのは解っている、けど、頼れるのは貴方だけだ、そう言われてまた奮起する。

それがいかりやにとっては心の拠り所だったのだ。しかし、この時は、額面通りに受け取られ、「休め」と言われてしまう。

今まで子どものように自分を頼ってきていたメンバーやスタッフから“肩たたき”にあった。

いかりやはそう感じたのだ。

「わかったよ。みんな、俺がいらないって言うんだな」

以降、ドリフのコントは加藤茶と志村けんが中心となって作られていくようになった。ちなみにこの時期からフジテレビで放送されていた『ドリフ大爆笑』でも、「いかりや・仲本・高木」と「志村・加藤」それぞれのコントが多くなり5人揃ったコントがほとんどなくなっていった。

やがて『ひょうきん族』の勢いが加速し、遂に1985年『全員集合』が終了。総集編を挟み、加藤茶、志村けんによる『カトちゃんケンちゃんごきげんテレビ』が既定路線のようにスタートしていった―――。

もちろんザ・ドリフターズはこの後も活動を続けるが、以前のような結束が戻ることはなく、各自のソロ活動、ユニット活動に移行していった。

いかりや長介はその後、子離れするかのごとく、お笑いの世界から離れ、性格俳優として大成していく。

ドリフの窮地を救った志村は、やがてドリフを変え、ドリフに引導を渡すこととなった。

新しい親としていかりやを選び、芸人として育てられた志村は反抗しながらやがて親を越え、親殺しするかのようにドリフを巣立ち自立した。

そして、その親の果たせなかった意思を継ぐように60歳を越えてもバカをやり続け、生涯お笑い一筋の人生を邁進しているのだ。

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まとめ

2020年3月25日(水)19時00分~21時48分   あいつ今何してる? 志村けん元恋人と再会!!黒木瞳・ホラン(秘)過去爆笑&涙3時間SP

志村けん衝撃のTV初告白…結婚を考えた元恋人と35年ぶり奇跡の再会!

ネプチューンMC「あいつ今何してる?」(テレビ朝日・ABCテレビ系)の3時間スペシャルが明日3月25日(水)に放送され、志村けんがゲスト出演する。

今何してるのか気になる人物として志村が名前を挙げたのは、かつて真剣に結婚を考えていたという13歳下の元恋人。

彼女とは番組を通じて出会い、人生で初めて相手の両親のもとまで挨拶に出向いたと明かす。

「何が破局の原因だったのかよく覚えていない」と当時を振り返り、「彼女が今、幸せかどうか聞いてみたい」という志村。

そこで番組スタッフが彼女に直接話を聞くと、志村が忘れていた破局の真相が約35年ぶりに明かされる。別れの理由や当時の交際秘話、彼女の今とは。

【志村けん】結婚を考えてた35年前の元恋人の顔画像や名前や現在は?と気になる方は多いと思いましたので、調べてみました。

結婚する日が来ることを願っています。そもそも結婚したいと思っていたのでしょうかね?

最後まで読んで頂きありがとうございます!

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